無我とは

禅的生活

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■ 無我とは

無我とはなんでしょう。
「我」というのは「自分」という意味ですので、自分というのは無いという意味でしょうか?
それとも「我」を「自身の思い、願い」と読んで、願いを持たないということなんでしょうか?


よく判りませんので、これは辞書です。

【引用】むが【無我】
1.私心・我意のないこと。無心であること。
2.仏教の根本思想の一つ。万物は現象として生成するだけで、絶対不変の実体は存在しないとすること。
【出典】大修館書店『明鏡国語辞典』

【引用】むが【無我】
2.我(われ)を忘れてすること。
3.〔仏〕我(が)の存在を否定すること。我は人間存在や事物の根底にある永遠不変の実体的存在(アートマン)。無我は無常・苦と共に仏教の根本思想の一。
【出典】岩波書店『広辞苑』

無心であること、というのは判りやすい気がします。でも、明鏡の2番目や広辞苑の3番目、仏教的な意味での「無我」ってよく判りません。
そこは専門家に聞いてみましょう。

■ 仏教での無我とは

【引用】無我とは「自分は存在しない」という意味ではなく、「自分は完全に独立した主体ではない」という意味です。
【出典】アスペクト
『あなたに幸福が訪れる禅的生活のこころ』
著:ティク・ナット・ハン 訳:山岡万里子

遺伝子は親から子へ受け継がれていきます。
その情報全てを受け取って、子は生まれてくるのですね。
子の細胞全てには親の遺伝子が含まれています。
息子の中に自分が生きている。そして自分の中には親が生きているのです。
そう考えると、決して人は完全に独立した個ではないということが判ります。

【引用】息子のすべての細胞に父親が存在しています。父と息子は同一人物ではありません。だからといって、まったく別個のふたりの人間というわけでもないのです。(中略)息子が苦しめば、父親も苦しむ。そしてその逆もあります。息子に対して憤るとは、すなわち自分に対して憤ること。父親に対して憤るとは、すなわち自分自身に憤ることなのです。
【出典】『あなたに幸福が訪れる禅的生活のこころ』

どんどん先祖を遡っていけば、目の前にいる人の中に、自分の一部を見つけることができます。
一番最初の先祖まで遡れば、その人は自分の中に生きており、目の前の人の中にも生きているんです。
あなたは私で、私はあなた。

■ 「無我」の思想で生活してみる

「あいつだけずるい!」
「なんで俺だけこんな目に…」
苦しみの形の一つに、こんなものがあるのではないでしょうか?
こういった苦しみがどこから生まれるのかというと、「比べる」ことからです。

【引用】人間の苦しみの多くは、自己と他人の区別、それに独立した自己という概念から生まれます。
【出典】『あなたに幸福が訪れる禅的生活のこころ』

独立した個であると考えるからこそ、隣と比べるし、競うし、争うのですね。
比べ、競い、争うからこそ苦しい。
もともとの区別が無ければ、比べることはありません。よって苦しみも生まれません。
「無我」の思想を実践するためには、逆から行けばいいのだと思います。
そう、比べるのをやめる。
比べることを一つ一つやめていけば、区別も一つ一つ少なくなっていきます。
そうしているうちに相手の喜びを、
「あいつだけ…」
なんて嫉妬することなく、自分のことのように喜べるようになるかもしれません。
人の悲しみにふれ、我がことのように祈れるのかもしれません。
思いやりは、比べないこと、「無我」の思想から生まれるのでしょう。
ホ・オポノポノの教えの一つに、「周りに起こっていること全ての責任は自分にある」と考えることがありました。
あなたは私、私はあなた。無我であるなら、問題の責任も無理なく受け入れられるのかもしれません。そして、その人にホ・オポノポノを実践するのでしょう。
ありがとう、ごめんなさい、ゆるしてください、愛してる…
何か今回の記事に繋がるところがあるような気がしますので、参考にしてください。
(参考「ホ・オポノポノの教え」)
本日もありがとうございました。

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